涙有り、笑い有り、心がとても大忙しだった。
父の病は大動脈弁狭窄症。心不全を2回も起こせば。。。3回目の人は余り見たことがない上に超高齢だと専門医は言った。
絶望的な気持ちと前向きな気持ちがひしめき合う1ヶ月だった。
私や周りの他の家族達も同じ思いだったと想う。
「父」という近い存在が、生と死の境界線にあるという思いは本当に未知の体験だった(当たり前だけど)。
親はいて当たり前という概念を換えなくてはならない戸惑い。
若くして親を亡くした人たちの気持ちに、急に胸を締め付ける程共感したり。
逆にこの状況を幸せだと感じられたり。なにせ父は95才なのだから。
でも、それは相対的なものであり、やはり親の生死と言うのは、どのタイミングで訪れようと辛いものであろう。
この1ヶ月の父の衰え方は急坂を転げるようだった。
5月の入院のタイミングに合わせるように、家の中のいろんなものが壊れた。ウォシュレット、腕時計、カメラのフラッシュ。でも、ウォシュレット以外は直った。お陰でスゴい出費ではあるけど(笑)
そう、こんなものごとにさえも寿命を重ねて一喜一憂してしまうのだ(苦笑)
しかし、こんな悲劇的な出来事の中でも、自分、いや超高齢の父にさえも心の成長があったことを見て、改めて人間のスゴさを感じたのもこの1ヶ月だった。何せこの1ヶ月の間に3回も入退院があったのだ。1回目の入院の初期は、直ろうとする気合いが感じられたが、途中からあきらめに変わり、死の恐怖と対面して困惑する様子から開き直ってユーモアタップリに振るまう姿から、本人も周りも泣き笑いであった。
父から人間のスゴさを学んだのは心の成長のみならず、人の生命力、感覚の妙味、自尊心、音楽の力、それぞれそれを語るのに投稿を分ける必要がある程想う所は大きい。
90歳を超えてもなお成長する人間って本当にスゴいと想う。
その人自身の変わらない本質があるのも事実(笑)
そして、萎縮した脳、酸素や血液が十分に行き届かない脳は恒に常軌を逸しているわけではなく、確かな意識がある時間帯も確実にあり、認知能力が低下していたとしても、人生の大先輩である大人であり、自尊心も見栄もあることを改めて実感させられる。本当に勉強になった1ヶ月だった。。。というより、まだ勉強の日々はず〜っとつづくのである。私の心がこの肉体と別れを告げるときまでね。
こうして、1ヶ月過ぎたこと自体が喜びそのものだと感じられる。
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by vrombir
| 2016-06-29 22:03
| 日記diary